「伴奏ギタリストがいない地域」に必要なのは、移植ではなく種まきだった

こんにちは!

フラメンコギター池川です。

先日、ぼくの住んでいる場所からずいぶん遠い、ある地域の教室に伴奏で呼んでいただきました。

踊り手のみなさんが生のギターで踊って、本当に喜んでくださって。ぼくも夢のような時間でした。

そのとき、その地域の先生にこう言われたんです。

「こっちには、伴奏してくれるギタリストがぜんぜんいないんですよ」と。

ぼくは各地で伴奏ギタリストを増やしたいと思って活動しているので、「じゃあ、ぼくが手伝えることがあるかも!」と、その場ではりきってしまいました。

でも、家に帰って冷静に考えてみたら——これがなかなか、簡単じゃないぞ、と気づいたんです。

この記事の目次

「ギタリストがいない」は、どこの地域でも同じ

これ、たぶん特定のどこかの話じゃないんですよね。

踊り手さんはたくさんいる。でも、生で伴奏できるギタリストは、ほとんどいない。これはお住まいの地域、それぞれの場所で、わりと共通して起きていることだと思います。

「だったら、ギターを弾く人を連れてくればいいじゃない」

ぼくも最初はそう思いました。でも、そこに大きな壁が3つあったんです。

壁①——「欲しい音」と「出せる音」は、別物だった

踊り手さんたちが感動してくれたのは、長年弾いてきたギターの「あの音」に対してでした。包み込むような、ぐっとくる伴奏。

一方、地元でギターを始めたばかりの人が今まさに出せる音は、まだ簡単な曲を一緒に合わせる段階だったりします。

この2つ、つい同じものとして考えてしまうけど、実はぜんぜん違う。

「ギタリストが欲しい」という需要に、「まだ練習中の人」を当てはめても、求められているものと噛み合わないことがあるんです。ここを混同すると、お互いがちょっと残念な気持ちになってしまう。

壁②——人には、それぞれの“間柄”がある

もうひとつ。これは外から来た人間には、いちばん見えにくいところです。

どの地域にも、長い時間をかけてできあがった人間関係があります。先生どうし、教室どうしの、微妙な距離感。

外から来たぼくが「この人とこの人をつなげたらいいのに!」と良かれと思って動くと、その繊細なバランスを、知らずに踏んでしまうことがある。

善意のおせっかいほど、こわいものはないですよね。ぼくも、危うくやらかすところでした。

壁③——その場を「続ける人」が、いない

そして、これが決定打でした。

ぼくは遠くに住んでいて、その地域に行けるのは年に一度あるかどうか。

つまりぼくは、その場を“運営し続ける人”には、どうやってもなれないんです。

一回きりの盛り上がりは作れても、毎週・毎月、踊り手とギターが合わせ続ける場を持ち続けるオーナーが現地にいないと、文化としては続いていかない。

「いい仕組みを作る」より先に、「それを回し続ける人がいるか」。ここが抜けていると、どんなに張りきっても、すーっと消えてしまうんですよね。

だから、「移植」じゃなく「種まき」

3つの壁にぶつかって、ぼくはようやく自分の役割を勘違いしていたと気づきました。

ぼくは、できあがったギタリストを“連れてきて据える人”じゃない。そんな力はそもそもない。

ぼくにできるのは、もっと地味なことでした。

  • 足を運んで、「生のギターで踊るって最高だ」という渇望を残すこと(=需要をつくる)
  • 始めたばかりの人に「困ったらいつでも聞いてね」と遠くから扉を開けておくこと(=種に水をやる)
  • その種が育って、いつか現地の誰かが核になるのを、信じて待つこと

工場じゃなくて、庭づくり。連れてくるんじゃなくて、生えてくるのを待つ。

来年までに、じゃなく、数年かけて。

そう考えたら、急に肩の力が抜けて、自分のやることがはっきりしました。

これは、ギターだけの話じゃないと思う

たぶんこれって、何かを地域に根づかせたい人みんなに当てはまる話なんじゃないかなと思っています。

欲しいものと、今あるものの距離をちゃんと見る。
人それぞれの間柄を、踏まない。
そして、それを続ける人がいるかを、いちばん先に考える。

あなたのまわりにも、「いいことなのに、なぜか続かない」こと、ありませんか?

もしかしたら、足りないのはアイデアじゃなくて、種をまいて待つ時間なのかもしれません。

 

こういう「伴奏ギタリストとしての考え方」や「地域に伴奏文化を育てていく話」を、

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