こんにちは、池川です。
おかげさまでAmazonランキング1位を獲得しました、電子書籍「アルバイト生活だったぼくがプロギタリストになって生活できるようになった話」
この度、全ページを無料公開することにしました。
「ネットで無料で読めるんなら、わざわざ買う必要ないんじゃない?」と思われるかもしれませんが、
ぼくが過去に行った数々の失敗や経験を知ってもらうことで、過去の自分と同じように、
・頑張っているけどなかなか成果が出ない
・本当に努力しているのになかなか報われない
そういう状況で苦しんでいる人が、ぼくのストーリーを読んでくれて、少しでも何か気づきを得て、また立ち上がるきっかけになればと思い、公開を決心しました。
それでは、スタートです。
この記事の目次
はじめに
はじめまして。池川寿一です。
普段はフラメンコギタリストとして、ライブ活動や舞踊伴奏、レッスン活動や教材制作などをしています。
ギターに初めて触れたのは6歳の時。ラテン歌手である父の影響ではじめました。
以来、ずっとフラメンコの世界にいます。ありがたいことに、現在は全国で音楽活動を行い、東京でギタースクールも開校し、そこでギターの指導も行っています。
演奏のお仕事のおかげで、日本中、北から南まで様々な場所に行くことができました。
その土地のものを食べ、多くの素晴らしい出会いを経験しました。
何より、演奏を通じてお客様に喜んでいただくという、演奏家冥利に尽きる日々を過ごすことができています。
今でこそ、このように思えるぼくですが、少し前までは演奏活動のかたわらアルバイトをしながらギリギリの生活を送っていました。
このストーリーの主人公はぼく。池川なのですが…
なぜ、わざわざ恥ずかしい過去、かっこ悪い過去も含めて、さらけ出そうと思ったのか?
決して自慢話をしたいわけでも、誰かに褒めてほしいわけでもありません。
本来であれば、隠し通したい部分まで、さらけ出すには明確な理由があります。
それは、過去のぼくのように・・・
◆バンドを組んでメジャーデビューを目指す?
◆コンテストやコンクールで優勝する?
◆とにかく作曲しまくる?
◆演奏のレパートリーを100曲増やしてみる?
と強く思っていても、何をどうしたらいいか分からない方たちに向けて・・・
過去のぼくのストーリーのを語ることで、不安から抜け出すためのヒントになればと思い、語ることにしました。
ぼくが犯した失敗や遠回りをしなくてもいいように、最短距離で目標に近づくために!
これはある意味、過去の自分への応援メッセージのつもりで書いています。
そして、今のぼくのように、
「好きなことを続けながら、好きな場所で好きな人と過ごす」
そんな人生をイキイキと楽しく人を増やし、イキイキした世の中にしたいと思っています。
途中、少し真面目に人生観を書いていますが、重く受け止めずに気楽に読み進めてみてください。
「音を楽しむ」と書いて、「音楽」
その行為はとっても幸せで、純粋で、尊いものです。
好きな音楽を聴いているような感覚で、ぜひ最後までお付き合いください。
それでは、スタートです!
第1章 なぜ、ギタリストになろうと思ったのか?
第1章は、ぼくがギターを弾き始めてから、プロを目指そうと思ったきっかけについてのお話です。
一体どんな経緯で「ギタリストになろう!」と思ったのか?
・家族のこと
・学生フラメンコ連盟との出会い
・人生を決定づけた友人の言葉
すべての原点がここにあります。
【1−1】 ギターを弾き始めたきっかけ
ぼくはラテン歌手である父親の影響で、6歳からフラメンコギターを弾き始めました。
知らない方のために説明すると、フラメンコ(flamenco)とは、スペイン南部のアルダルシア地方で生まれた伝統芸術で、踊りの伴奏として弾かれているのがフラメンコギターです。フラメンコは日本でもダイエットブームや健康ブームの影響もあり、人気の高い習い事として定着しています。
6歳のころは単純にギターを弾くことが好きでした。音の美しさや弾ける楽しさに夢中になりました。小中学校のころは、友達の前でギターを弾くこともありましたが、それでも「プロになりたい」とまでは考えていませんでした。
高校生の時はフォークソング部に入りました。周りが弾き語りしている中で、ぼくは一人でフラメンコギターをかき鳴らすという、今振り返ってもかなり浮いていた存在でした・・・。
そのまま、特にやりたいことなども定まらないまま大学に進学。在学中はインスト系のバンドを組みながら、飲み会に明け暮れる平凡な学生生活を送っていましたが、人生の転機は、大学3年生の時に突然訪れました。
【1-2】突然起きた”まさかの出来事”
当時はちょうど小泉政権が誕生し、不況の真っただ中でした。
ぼくの両親は飲食店を経営していたのですが、そんな世の中の不況のあおりを思いきり受けてしまったのです。
「このままだと学費が払えない…」
「大学を辞めてもらえないか?」
突然の宣告。順風満帆に過ごしていた人生に起きた、まさかの出来事でした。
結局、奨学金を得られたおかげで、なんとか大学を卒業する目処が立ったのですが、この時から「ギターを仕事にする」ことを少しずつ考え始めていました。
周りの友達も就職活動で忙しそうにしています。
気持ちばかり焦るものの、具体的にどうしていいのか分かりませんでした。
「バンドを組んでメジャーデビューを目指す?」
「コンテストやコンクールで優勝する?」
「とにかく作曲しまくる?」
「演奏のレパートリーを100曲増やしてみる?」
何か答えを知りたくて多くの本も読みましたが、「プロのギタリストになる方法」はどこにも書かれていませんでした。
「やっぱり無理なのかな?」
そう思い始めていた矢先、インターネットで偶然「あるもの」と出会いました。
その出会いこそ、ぼくの人生を大きく変えることとなったのです。
【1-3】プロギタリストを目指すきっかけになった出会い
周りが就職活動をしている中、どうギターを仕事にするのか悩み途方に暮れ、気持ちばかりが焦っていた大学3年生の終わり。
忘れられない出会いがありました。
インターネット上でたまたま知った「学生フラメンコ連盟」という団体です。
ここは、関東を中心に「フラメンコサークル」がある大学が連盟を結んだもので、年に1度、合宿や公演を行っているとのこと。
「自分と同じ大学生がフラメンコをやってる!?」
ぼくは子どものころからフラメンコギターを弾いてきましたが、フラメンコを通じて「仲間」と呼べる人はいませんでした。いたとしても、ぼくよりもずっと年上の人ばかりだったのです。
「自分と同じ歳ぐらいの人達が、フラメンコをしている」ことを知ったぼくは、ここに何かヒントがあるかもしれないと感じ、団体に所属していた大学サークルにメールを送ることにしました。
そして、日程が合う限り見学させてもらうことになりました。
初めて訪れた他の大学で見た光景。それは新鮮そのものでした。
同年代の人達が仲間たちと楽しそうに、情熱を持ってフラメンコを練習している―。
部員の皆さんは、部外者のぼくを喜んで歓迎してくれました。
どうしてだろう?
ほどなくその理由がわかりました。
フラメンコの世界では、踊る人の数は多くても、フラメンコギターで伴奏できる人はとても少ないのです。
ここではギターが必要とされているー。
何か新しい世界が広がったような気がしました。
【1-4】はじめてのフラメンコ伴奏!しかし…。
学生フラメンコ連盟の存在を知ってから、ぼくは毎日のように所属するサークルへ足を運びました。
それまで、フラメンコギターはずっと弾いていましたが、ぼくが弾いていたのは楽譜と向き合って弾く「ソロギター」のスタイルでした。
一方、学フラで求められる演奏は「伴奏」スタイルです。
自分が弾きたいように弾くソロギターと異なり、踊り手が踊りやすいように弾く必要があります。
困ったことに楽譜があるわけではなく、踊り手の動きや合図を見て伴奏するのですが、当時のぼくにはそれが全く分かりませんでした。
さらに、フラメンコには歌い手もいます。
つまり「踊り手の伴奏をしながら、歌い手の伴奏もする」という2つのことを同時にこなす必要があります。
「この曲はどんな流れでできているのか?」
「どこで止まったら良いのか?」
「どうやってタイミングを合わせてリズムを早くするのか?」
「歌詞の意味は何なのか?」
「コード進行はどうなっているのか?」
考えることが多すぎて、分からないことだらけでした。
疑問が生まれるたびに踊り子や歌い手に聞いたり、過去のイベントで踊った時の映像や市販のビデオを観たり、CDを聞いたりして、ひとつひとつ解決していくことを心がけました。
フラメンコを通じて、仲間と交流できる日々がとても楽しかったんです。
そんな中、とある大学からこんなお誘いいただきました。
【1-5】人生初のフラメンコライブ出演!そして…。
「池川君、うちの大学の文化祭で伴奏をしてみない?」
突然のお誘いにびっくりしました。
声をかけてもらったのはとても嬉しかったのですが、生まれて初めて経験するフラメンコの舞台です。
楽しみな気持ちも当然ありましたが、大きな不安に駆られました。
「勉強し始めたばかりだし、まだ分からないことだらけだし…」
「もし伴奏を間違えたら、周りに迷惑をかけてしまう…」
ですが、悩んでいても始まりません。
思い切って引き受けることにしました。
それからというものの、緊張や不安と戦いながら、とにかく毎日必死で練習しました。
合わないところがあれば踊り手を捕まえて、合わない原因とより良くする方法を一緒に語り合う。
これを繰り返すうちに自然と息も合うようになっていきました。
そして迎えた本番当日。
ぼくは、演奏前には「間違えても、とにかく止まらずに弾く」と心に決めていました。
自分が演奏を止めてしまうと、歌も踊りも止まってしまうからです。
伴奏者にとって止まらずに最後まで弾くことは、最低限の、そして最も重要のことなのです。
演奏中、何か所か間違えてしまった部分もありましたが、止まらずに最後まで弾くことができました。
自分のギターで
「踊り手が踊っている!」
「歌い手が歌っている!」
「観客がそれを見てくれている!」
そんな喜びを肌で感じることができた最高の舞台でした。
その日の打ち上げの光景は、今でもよく覚えています。
部員ひとりひとりが感想を発表していく中、ぼくは練習の日々を思い返していました。
部外者である自分をあたたかく受け入れて、対等の立場で練習に付き合ってくれた仲間たち。
その感謝の気持ちをぼくなりに伝えた後、思わず涙がボロボロと流れました。
ギタリスト人生で泣いたのは、この時が初めてでした。
打ち上げが終わり、その日は後輩のギター仲間の家に泊めてもらうことにしました。
彼と明け方までフラメンコやギターについて熱く語り合い、気付いた時にはもう明け方。
酔い覚ましにと近くの公園を2人で散策していた時、彼が何気なく「ある言葉」を口にしました。
今振り返って思うのが、この言葉こそが、ぼくの人生を決定づけるものだったんです。
【1−6】「ギターで飯を食う!」と決意させてくれた友人の一言。
明け方の公園で、ギター仲間が口にした何気ない一言。
それは、このようなものでした。
「池川さん、世の中にはいろんなジャンルのギタリストがいますけど、ギターで飯が食えるのはフラメンコだけなんすよ。なんでだと思います?」
「え?どうして?」
ぼくはすぐさま尋ねました。
「フラメンコって踊り手がたくさんいますよね?」
「でも伴奏できるギタリストが少ないんですよ」
「ってことは、”需要”があるんですよ」
「需要…?…そうか!」
まさに、目の前にかかっていた霧が一気に晴れたような気分でした!
それまでは、
「ギターで飯を食う」
「ギタリストになる」
という夢は持っていたものの、具体的にどう行動して良いのか、まったく分からない状態でした。
・バンドを組んでメジャーデビューをする。
・CDでミリオンセラーを出す。
・スタジオミュージシャンとして活動する。
・コンクールで受賞する。
といった、ぼくが知っていた「ギタリスト像」は、まるで宝くじを買うようなイメージだったので、どれも現実味がありませんでした。
ですが、彼の言う
「フラメンコの踊りの伴奏ができるようになれば、ギタリストの道が開かれる!」
というのは、とても現実的です。手を伸ばせば叶いそうな夢です。
もちろん「可能性はある」というだけの話で、絶対ではありませんが、将来に漠然とした不安を抱えていた自分にとっては、これの言葉は最高の起爆剤になったのです。
「どこまでやれるか分からないけど、ギタリストの道でやっていこう!」
そう決意したのは、大学4年の卒業間近でした。
【1−7】大学卒業。新たなる旅立ちへ。
「ギタリストとして生きていく!」そう決意し、就職活動はせずにギタリストになりたいことを両親に話しました。
二人とも驚いた顔をしていましたが「お前が決めた道だから」と、言葉をかけてくれました。
収入が不安定になることを考えると不安な気持ちになることもありましたが、それ以上にギタリストとして生きていく夢と希望で心は満たされていました。
そして、いよいよ大学を卒業する日。
卒業後は、まずはフラメンコの本場スペインへの留学をめざし、ギターの練習とアルバイトに費やすことにしました。
そして、卒業したその年の冬に、スペイン留学することとなったのです。
それでは第2章でお会いしましょう!
【第2章】いざ、スペイン留学へ!
第2章は、大学を卒業してから、「とにかくフラメンコの本場に行って、勉強しよう!あれこれ考えるのはその後だ!」と決意した男のリアルストーリーです。
・初めての一人暮らし
・初めての炊事、洗濯、自炊
・初めてのスペイン人とのコミュニケーション
・初めての遠距離恋愛
ぼくの人生の「初めて」だらけの最初のストーリーをお届けします。
今、こうやって振り返ってみると、本当に若さと勢いだけで乗り切ってきたなぁと、かなり恥ずかしい想いもしますが、そこをあえて知ってもらえたらと思いお話します。
【2−1】初めてのスペイン留学。まず何をしたのか?
大学を卒業したぼくは意を決して、フラメンコの本場、スペインへ留学することにしました。
実は大学生の時に1週間ほど旅行で行ったことはありますが、長期の滞在は初めてです。
・住むところはどうする?
・ギターの先生はどうやって見つければいい?
・スペイン語はどうする?
・期間はどれぐらい?
・お金はどうする?
など、考えればキリがありません。
そんなぼくがまず何をしたかと言うと・・・
とりあえずスペインに行っちゃいました。
行ってから考えることにしました。
今振り返っても、「えっ?」と思ってしまう瞬間です。
普通であればもう少し計画を立ててから行くものですが、当時のぼくは、「とりあえず行けばなんとかなるだろう」と思っていたんですね(笑)
ただ一つ、今も昔も大事にしていることがあって、それは、
「悩んでも始まらない」
「迷うぐらいだったら、とりあえず動いてみよう」
というものです。
ある程度ザックリと方向性だけ決めたら、あとは現地でなんとかなるだろうと思っていました。
とは言え、留学前にある程度のプランを考えていました。
それがこちらです。
<住む場所は?>
学生フラメンコ時代に出会って付き合っていた彼女が、マラガの大学に語学留学するというので、ぼくも一緒のタイミングでマラガへ行くことにしました。
<予算は?>
アルバイトで溜めた数十万円が手元にありましたが、これだけでは正直心もとない・・・。そこで、「いざという時に連絡するからお願いね!」と両親に伝えておきました(両親に感謝!)。
<期間は?>
予算から逆算して、半年間に決めました。
<スペイン語は?>
2ヶ月目からセビージャにある語学学校へ通うことにしました(3ヶ月間)。
<ギターの先生は?>
学校に入る選択肢も考えましたが、現地で探すことにしました。
(このことついては後ほどお話します)
<以上を踏まえての大まかな留学内容>
1ヶ月目…マラガでスペイン語をメインに勉強する。
2〜4ヶ月目…セビージャに移動して語学学校(3ヶ月間)通う。ギターレッスンを受ける
5〜6ヶ月目…語学学校卒業したら、いろいろな場所でレッスンを受けてみる。
そして、スーツケース1個とギター1本を背負って、スペインに旅立ちました。
【2−2】1ヶ月目。いきなり挫折。
最初の1ヶ月目は、当時付き合っていた彼女と一緒に、マラガに住むことにしました。
スペインではピソと呼ばれるルームシェアが一般的で、マラガでも例外ではなく、スペイン人カップルがオーナーとして貸し出していたアパートに、彼女とぼくも一緒に暮らすことになりました。
日本ではベラベラ喋るぼくですが、スペイン語は一切勉強してこなかったこともあり、ほぼ無口・・・。
口を開いたとしても、
「Si(はい)」と「No(いいえ)」ぐらい。
その点、彼女は日本ではスペイン語学科に通っていましたし、現地の大学に語学留学するだけあって、すでにペラペラでした。
食事中も楽しそうに会話する彼女をよそに、ぼくはひたすらスプーンを口に運んでは食べ物に戻し、またそれを繰り返すだけというありさま・・・。
見かねたスペイン人オーナーから、
「トシ(ぼくのこと)はロボットみたいだね」
と、冗談と皮肉混じりに言われたものでした。
そんなぼくでもスペイン語で頑張れた「ある出来事」がありました。
ある日、彼女が体調を崩してしまい、部屋から一歩も出られなくなってしまったんです。
スペイン人オーナーが「トシ、彼女のために薬を買ってきてくれ」と言ってきたのです。
「冗談じゃない!」
「薬屋で薬を買うなんてムリムリ!」
と、都会で育ったお坊ちゃんなだけに、イヤイヤオーラ全開で抵抗しようとしましたが、意を決して買いに行くことに。
その時教えてくれたスペイン語「ドロール・デ・ガルガンタ・ポル・ファボール(のど飴ください)」は今でも忘れません・・・。
【2−2】2ヶ月目。セビージャへ移動!
彼女が大学へ行っている間は、ぼくは部屋に籠もってギター練習する。最初の1ヶ月はあっという間に過ぎていきました。
2ヶ月目から、同じアンダルシアにあるセビージャへ移動することに。
日本で申し込んでいた語学学校に行くためです。
彼女と会えるのは週末だけとなるので、少し寂しくなりますが、本業のギターを頑張るぞ!!
語学学校では、いろいろな国の人たちがいました。
ノルウェー、スェーデン、アメリカ、中国、そして日本代表のぼく。
授業は進んでいくのですが、それにしても、スペイン語がわからん…。
ぼくはなぜか昔から外国人アレルギーみたいなのがあって、日本人が相手だと初対面でも気軽に話すことが出来るのですが、外国人相手だと突然緊張して、何も言葉が出なくなってしまうんです。
しかも狭い部屋に多国籍ですよ。
ぼくにとっては拷問以外の何物でもありません…。
こんなエピソードがありました。
多国籍なクラスでしたが、ぼく以外は全員英語は話せます。
ある朝、いつものようにクラスを受けようとすると、中から英語を話すクラスメイトの声が。
「なんだか楽しそうだな」と思って、ぼくが教室へ入った瞬間に、全員が一斉に黙ってしまったんです。
ぼくが英語を話せないのを知っているので、彼らは会話を止めたんだなと一瞬で分かりました。
それが彼らなりの気遣いだったんだと思いますが、分かっていても辛かった。
言葉が話せない、自分の想いを伝えられないもどかしさ、そのことでギクシャクする人間関係。
その日の授業はまるで頭に入らず、家に帰ると、人知れず部屋で泣いてしまいました。
【2−3】先生探しも苦難の連続!
スペイン語が出来ないことは、ギターの先生探しにも響きました。
そもそもぼくは、フラメンコギターを学校に通って習うのではなく、街角でギターを背負ってる人を見かけては、「ギターを教えてくれませんか!?」と直談判するという、まさに武者修行のような形を選びました。
留学していたセビージャには数は少ないにせよ、フラメンコギターを教えてくれる学校はあったのですが、大学を卒業して、またイチから学校に入り直すというのがいまいちイメージが湧かなかったのです。
不安もありましたが、とにかく動きまくろう!と思い、街でギターを持っている人に片っ端から声をかけまくっていたのですが、中には、ぼくと同じギターの練習生だった人もいて、恥ずかしい思いもしました(笑)
そうして、街中で何人かに声をかけて、最初に習った先生は、昔「伊勢スペイン村」に仕事で行ったことがあるとのことで、日本にとても親しみを持っている方でした。ラッキー!
値段交渉をして、さっそくレッスンが始まります。
【2−4】やってしまった間違い…
レッスンをするためにはまず課題曲を決めなければなりません。
学校であれば、カリキュラムがあるかもしれませんが、
個人レッスンの場合は、特にありません。
先生「何を習いたい?」
ぼく「えーっと(よくわからないので)ブレリアスでお願いします」
※ブレリアス=フラメンコの曲の形式の名前。
今振り返ると、ぼくは大きなミスをしていました。
それは、
「フラメンコにはどんな曲があって、何を自分が知らないのかを知ること」
です。
ぼくが知っていたのは、ブレリアスとか、アレグリアスとか、タンゴス、ソレア(いずれもフラメンコの曲の形式)とか、せいぜいそれぐらいです。
気がつけば、同じ曲の形式だけを習い続けてしまっていたのです。
ここが「武者修行タイプ」の欠点で、「知らない曲はずっと知らないまま」になってしまいがちです。
その点、「学校タイプ」は自分が知らない曲も学ぶことができます。
「自分が何を知らないのかを知ること」は、今ではギター生徒にも強く伝えていますが、
当日は身をもって、お金と時間を無駄にしてしまいました。
【2−5】レッスン代は言い値!?
ぼくがあるギタリストに習っていた時の話です。
「俺のレッスンは1時間◯ユーロだ」というので、何の疑いもなしにその金額を払ってレッスンを受けていました。
ある日、同じ先生に習うアメリカ人の生徒と出会ったのですが、彼に何気なくレッスン代を聞いた所、なんとぼくのレッスン代よりとても安かったのです。
どうやら彼はスペイン語がある程度話せるので、金額交渉できた模様…。
その点ぼくは交渉ができるだけの語学力がなかったので、先生の言い値でそのままレッスンを受けざるを得ませんでした。
やっておけばよかった、スペイン語…。
他にも、こんなエピソードがありました。
とある大御所ギタリストと知り合うことができ、レッスンを受けたいと直談判しました。
「いいぞ。俺のレッスンは1時間40ユーロだ。ただ、オレは歌も歌えるから、歌付きの場合は50ユーロだが、どうする?」
とのこと。
よくわからなかったこともあり、とりあえず安い方(ギターだけのレッスン)にすることにしました。
いざ、レッスンを受けてみると、本人が気持ちよくなってきたせいか、いきなり歌を歌い始めたんです!(笑)
歌なしって言ったのに、自分が気持ちよくなると思わず歌ってしまうって…。
なんだかスペイン人っぽい、、。
もちろんレッスン代は40ユーロのままでしたが、なんだか笑えるエピソードでした。
【2−6】留学が終わる…
午前中は語学学校、午後はギターレッスンにフラメンコスタジオでの伴奏、夜はタブラオ(フラメンコのショーを見せるレストラン)やライブ巡りと、半年間のスペイン生活はまたたく間に流れていきました。
週末は観光をしたり、セビージャの聖週間(Semana Santa)、春祭り(Feria de abril)、カディスのCarnaval、バレンシアの火祭り(Las fallas)などの季節のお祭りやイベントに参加することもできましたし、バレンシアで観た闘牛もものすごい迫力でした。
付き合っていた彼女とは毎週末に会っていたですが、ぼくが異国の地でストレスを抱えていたのもあり、ケンカばかりしてしまい、結局は別れてしまいました。
音楽、友人、恋愛…。振り返るとなんだか青春時代そのもののようです。
もちろん、留学はゴールではなく、スタートです。
日本に帰ったら、
住むところはどうする?
仕事はどうする?
何をどう始めたらいい?
不安なことを考えればキリがありませんが、
日本に帰る最後のセビージャの夜に
「とにかく自分で決めた道だからひたすら走ろう!」
そう決意し、日本に戻りました。
帰国後、ぼくが具体的に何をしたかというと・・・?
その続きは第3章でお話しますね。
特別コラム
ここで、今だから言える、これから留学を考えている人へのアドバイスをお話します。
●留学アドバイス1「語学!語学!語学!」
ぼくは「言葉もギターも現地に行けばなんとかなる!」と思っていました。もちろんそれなりに何とかなるものですが、先生と深い話をしたくても出来ないときは、とてもストレスを感じました。
特にぼくみたいに外国人アレルギーみたいなのがある人にとっては、拷問(?)かもしれませんが、日本でなるべく外国人に触れておいた方がよかったなぁと思いました。
外国ではやらなきゃいけないことが山のようにあるので、ストレスは先に感じておいたほうがいいと思います。
ぼくは語学留学で来たわけではなく、あくまでギター留学、ギターが上達することがメインでしたが、それでもコミュニケーションがとれるに越したことはありません。
やらなくて苦労したぼくが言うので絶対です…。
●留学アドバイス2「コピー能力を高めておこう!」
音楽、ダンス、絵画なんでもいいのですが、ジャンル問わず「あったほうがいい能力」は、ズバリ、「コピー能力を高めること」です。
コピー能力とは、音楽の場合、相手が弾いた曲やフレーズを瞬間的に自分でも弾けるようにする能力のことです。
ぼくがスペインでギターレッスンを受けていたときのこと。
先生が目の前で教えてくれるフレーズをいかに素早くコピーできるか。
それ次第で同じ1時間でも、
「フレーズを1つだけコピーできるか」
それとも
「フレーズを2つ以上コピーできるか」
のとでは成長に何倍もの差が生まれます。
コピーが早ければいいというものじゃありませんが、なるべく少ないお金と時間でたくさんのものを吸収できるようになることは損にはなりません。
では、どうやったらコピー能力を高められるのか?
ぼくの場合は、
「楽譜→映像(YoutubeやDVDなど)→CD」
の順番でオススメしています。
楽譜は目で見てメロディやリズムが分かるので利用しない手はありません。楽譜が読めなければタブ譜付きをオススメします。
とは言えあまり楽譜に頼りすぎてしまうと、今度は楽譜から離れられなくなってしまいますので注意が必要です。
映像は目で動きを確認できますが、細かなフレーズなどはコピー能力が高くないと取り切れないので楽譜よりは難易度高めですが、時間をかけられれば時間をかけた分だけ、自分の身になります
楽譜も映像も「目」と「耳」の両方を使ってコピーできますが、最終的にはCDだけ、つまり「耳だけ」のコピーを目指しましょう。
情報が制限される分、とても労力がかかりますが、かなり鍛えられます。
この能力は、ギターに限らず音楽全般、ダンスやボーカルでも応用できるものです。
こちらにもまとめましたのでぜひご覧くださいね!
第3章 帰国して、ぼくが取り組んだこと
第3章は、ぼくが大学を卒業してプロギタリストを目指し、スペインに留学し、帰国してからの話です。
「ギターで飯を食いたい」
半年間の留学を経て、日本へ帰国しても、当然この時点ではまだ仕事はありません。
そんな状況で、ぼくがどう生活していき、仕事を増やしていったのか??
ぼくが実際に取り組んだストーリーを包み隠さず、語ろうと思います。
【3−1】まずはアルバイトを探すことに。
帰国後は、東京の赤坂にある実家へ戻ることにしました。
「自立してプロとして活動したい!」という気持ちはあるものの、まずは生活を維持しなくてはなりません。そのために、まずは実家で生活しながら、アルバイトをすることにしたのです。
なるべく練習時間を確保したかったので、
「時給が高いところ」
「短時間で稼げるところ」
「自分の特技を活かせるところ」
この3つの条件に絞ってアルバイトを探しました。
ぼくは昔からパソコンが好きでタイピングには自信があったので、比較的時給が高いデータ入力のアルバイトを始めることにしました。
他にもテレビゲームが昔から好きだったので、ゲーム関連で探してみると、発売前のゲームをひたすらプレイして、バグ(不具合)が起きないかを調べるアルバイトもやりました。
多い時で1日6時間とか7時間とかゲームをするので、自分の好みのゲームの内容なら楽しめましたが、そうじゃないゲームの場合はさすがに辛かったです…。
アルバイト生活ということもあり、とにかく毎日切り詰めて生活することを心がけました。
外食は高いので自炊中心。100円ショップの安いふりかけや缶詰を買って、安いスーパーで買ったお米を大量に炊いて公園で食べていました。
当時は駅から近い350円の蕎麦屋にするか、駅から遠いけど50円安い蕎麦屋にするかで思いっきり悩んだものです。
【3−2】アルバイトと同時にぼくが始めたこと
プロになるためには、とにかく自分のことを知ってもらう必要があると思っていました。
そこでぼくは、スペイン留学中に知り合った踊り子さんに連絡し、「自主練の時はぜひ呼んでください!」と声を掛けることにしました。
もちろん踊り手さんの自主練習にお付き合いすることでまだお金をいただくことはできませんが、フラメンコ伴奏の技術を高めることができたり、人づてで自分のことを知ってもらうきっかけにもなりました。
部屋にこもって練習するのも大事ですが、外に出て露出する(知ってもらう)ことも大事なことです。
ギタリストとして駆け出しの頃、こんな出来事がありました。
とあるフラメンコスタジオの先生と話をしていた時のことです。
「池川君ってパソコン得意?」
「はい、できますよ」
「私、自分の教室のホームページを作りたいんだけど、お願いできるかしら?」
「はい!ぜひやらせてください!」
なんとホームページ制作の依頼を頂いたのです。
プロの業者ではないので素人に毛が生えた程度ですが、大学で学んだパソコン技術がここで生きることになるとは…。
この経験が「自分ができる技術をお金に変えていく」ことを考えるきっかけになりました。
【3−3】お金はいつからもらえるようになるの?
その後もフラメンコ教室やスペインで知り合った踊り子さん、貸しダンススタジオで知り合った練習生など、出会った人が伴奏を求めていたらすぐに赴いて伴奏をする、ということを続けていたのですが、ある日、とても重大なことに気が付きました。
「このままじゃ食えない…」
…気が付くのが遅すぎますね(笑)。
「自分は勉強中なので、伴奏させてください!」というスタンスで周りに声を掛けると、当然ながら、無償での仕事となります。
ある時、思い立って「できればお金をいただければと思っていて…」と話をしてみたら、次回から声が掛からなくなった…ということもありました。
はじめからお金を追いかけてしまうと、その分だけ出会える人や仕事の数が減っていきますし、かといってボランティアを続けていくのも限界があります。
では、どうやって値決めをするのか?
ぼくがお金を頂くための判断基準はこうでした。
例えば、その人と一緒にやることで技術を高めることができたり、知らないことを知るチャンスになるのであれば、お金はもらえなくてもどんどんやるべきです。
逆に、その人と一緒にいても失礼ながら成長できなかったり、特に学べることがなければ、お金を頂くように交渉してみる、というものです。
自分で値付けすることはとても勇気がいることですが、お金をいただけるようになると自信にも繋がりますし、何より自分の存在を認められたような気持ちになれ、音楽にも影響が出ます。
値付けには正解はありませんが、自分の中の判断基準を持つといいかと思います。
【3−4】フラメンコ伴奏活動以外にやったこととは?
ぼくには一つ下の弟がいて、彼もフラメンコギタリストとして活動をしています。
ぼくは「伴奏ギタリスト」として活動する一方で、弟と一緒にユニットを組みたいと考えるようになりました。
そうしてできたのが、「フラメンコギターデュオ池川兄弟」です。
バンド活動は大学時代に仲間と組んでいたこともあったので、当時出演させてもらった地域のイベントに出演したところ、それを観た方から、
「今度は私が主催するイベントで出演しませんか?」
とオファーを頂くこともありました。
それを観た方から、次のライブやイベントに繋がって…と、次第に本数も増えてきました。
「兄弟で」「フラメンコギターデュオ」というのがとてもキャッチーだったのかもしれません。
伴奏と違って、ライブ活動の場合は、やることがまた変わってきます。
・演奏曲はどうする?オリジナル曲?カバー曲?
・MC(トーク)は何を話す?
・宣伝はどうする?
・演奏場所はどうやって増やす?
一つずつ考えては、ライブで実践していきます。
「池川さんって昔からそんなに話すのが上手なんですか?」
とよく言われるのですが、今でこそ人前でスムーズに話せるようになりましたが、当時はステージに立つと緊張してしまい何もしゃべれませんでした…。
どうやって克服していったのかというと、やはり場数ですね。
特にトークが鍛えられたのは老人ホームでの慰問ライブでした。
だって面白いことを言っても反応がないんですもん!(笑)
中には寝ているおじいちゃんもいたりして、はじめは
「つまらないのかな?」
「曲が悪いのかな?」
と自分たちを責めていていたのですが、繰り返していくうちに、自然体でライブをすることができました。
何でもそうだと思うのですが、意気込んでいるうちはうまくいかなくて、
「まあ、こんなもんかな?」と力が抜けてくるとうまくいくようになるものです。
…とまあ、そんな感じで試行錯誤する日々を過ごしていたところ、こんな声をいただくようになりました。
「CDは出してないんですか?」
【3−5】はじめてのCD作り!
ミュージシャンと言えばCDです。
ぼくもプロを目指そうと思ったときに、まず思い浮かんだのが「CDを出してミリオンセラー」でした。
まさにミュージシャン活動の代名詞と言えるCD制作ですが、そもそもどうやって作ったらいいのか分かりません。
困っていると、こんな出会いがありました。
毎年出演させていただいている千葉県成田市の野外イベントがあるのですが、そこでぼくたちと同じギターデュオで活動している「アコースフィア」さんと出会いました。
ギターデュオという同じ演奏形態でありながら、すでにバリバリプロとして活動されている方々です。
思い切ってCD作りの話をした所、「手伝ってあげるよ」との嬉しいお返事が!
はじめてのレコーディングは、何もかも初めての経験でしたが、彼らからアドバイスをもらいながら、一から丁寧に作っていきました。
この時、アコースフィアさんから教わったのが、
「作品の完成度を大事にするか、それともライブ感を大事にするか?」
というものでした。
「作品の完成度を大事にする」というのは、一小節、または一音ずつ何度も取り直して、作品としての完成度を高めていくことであり、
「ライブ感を大事にする」とは、少し音が揺らいだり、音がかすれたとしても、生演奏らしさを活かしたまま残すということです。
どちらを選ぶかは、アーティストによっても異なります。ぼく達は、兄弟ならではのライブ感を活かしたいと思い、後者を選択しました。
かすれる音、微妙なズレ。それをどこまで格好良くできるか?
頭では理解できていても、実際に商品として出せるものを録るのは、心理的なプレッシャーがとても大きかったのを覚えています。
「CDを聞いた方から、金返せ!って言われたらどうしよう…」なんて考えが、頭をよぎったこともありました。そういった葛藤も含めて、アコースフィアさんは、ぼくたちに必要なことを教えてくれたような気がします。
こうして完成したのが、デビュー作「桜風(さくらかぜ)」です。3曲入りで1000円のミニ・アルバム。
もちろんCDを作ったからには売らなければなりません。
そこでホームページを作って売ることにしました。
これまで、人に頼まれてホームページを作ったことはありましたが、自分のを作ったことはありませんでした。
アコースフィアさんとも相談しながら、試行錯誤を繰り返して何とかホームページが完成しました。
すると、思わぬ反応があったのです…。
【3ー7】ぼくがギターレッスン!?
ホームページを作った当初の目的は「CDを買ってもらうこと」であり、「自分たちを知ってもらうこと」でした。
メインの情報はぼくと弟のユニットである「フラメンコギターデュオ池川兄弟」のプロフィールやライブスケジュールの情報だったのですが、公開してほどなく、こんなお問い合わせが来ました。
「フラメンコギターに興味があるので、教えていただけないでしょうか?」
ギターを教える!?
ぼくが!?
これまで友人に遊びの延長で教えたことはありましたが、仕事として受けたことはありませんでした。
しかし、何事も挑戦です。
正直、ライブ活動やCD販売だけでは、収入がとても不安定でしたし、ギターで飯を食っていくためには選り好みはしていられません。
意を決して、レッスンをすることにしました。
ここで思いがけないこんな出来事がありました。
人生初めての生徒さんとのメールでのやり取り。
ぼく「ギターレッスン、ぜひ引き受けます!」
相手「ありがとうございます!」
ぼく「それでは〇月〇日、〇時に■■駅前の改札前で待ち合わせはいかがでしょうか?」
相手「はい、わかりました!」
…と、よくありがちな内容です。
そしてレッスン当日になりました。
待ち合わせ場所に行っても、その方の姿が見えません。
「うーん、スッポかされてしまったかな?」
と思い、帰ろうとしたところ、背後から
「池川さんでしょうか?」
と女性の声がしました。
なんと、レッスンを申し込んでくれたのは女性だったのです。
ぼくはてっきり「フラメンコギターのレッスンを受けるのは、男性しかいない!」と思い込んでいたので、まさか女性からの依頼だったとは…。
その時の教訓で、お申し込みをいただく際には、フルネームの記載をお願いするようになりました(笑)。
当時は教える場所もなかったので、自宅に招いてのレッスンです。
狭いながらも何とかできることをさせていただきました。
その後も少しずつレッスンのお問い合わせをいただくようになると、少しずつ生活が安定するようになりました。
フラメンコ伴奏、ライブ活動にレッスン活動。
そして1年に1度ぐらいのペースでCD作りに励んでいると、気がつけば忙しくなり、毎日があっという間に過ぎていきました。
【3−8】音楽事務所と契約!?
ある野外ステージでのライブを終えた時の話です。
演奏後に、一人の男性が声をかけてきました。
「素晴らしい演奏だったよ!」
話を聞くと、音楽事務所の社長とのこと。
「君たちは事務所に入ってるの?」
「いえ、自分たちだけでやっています」
「そうなんだ!もったいないね!」
「はあ・・・」
最初はこんな会話でした。
その後もメールをやり取りしたり、会うたびに、
「君たちなら売れるよ!」
「こんなユニットは他にいない!」
「自分たちで活動するのも限界があるでしょ?メジャーになるにはメジャーになる方法がある。私でよければプロデュースするけど、どう?」
という言葉の数々に、ぼくはすっかり気を良くしていました。
確かに、しばらく演奏活動は続けていたものの、これ以上どうやって自分達を売っていったらいいのか、やり方が分からなかったんですね。
「事務所と契約かぁ…」
しばらくは悩みました。
話は変わって、ちょうどこの頃からある女性と知り合い、お付き合いをしていました。
彼女はフラメンコスタジオで出会った練習生でした。
「いずれはプロのステージで踊りたい」と話をしていて、そんなまっすぐで情熱的な一面に惹かれました。
彼女と結婚したいと思っていたこともあり、安定した生活を送りたかったのかもしれません。
不安にも感じましたが、ぼくのモットーは、
「迷ってみたら、とりあえずやってみる」
です。
それに、一度きりの人生。
「音楽事務所との契約」を経験してみるのも悪くないじゃないか?
事務所に入れば、自分では届けられなかった範囲に活動の幅を広げることができるし、もっと人前に出て、自分たちのことを知ってもらうことができる。
この状況を前向きに捉えてみようと思い、事務所と契約をすることにしました。
「この人についていけば安心だ!」
「ギタリストとしての夢が叶ったぞ!」
…どうしてこの時もっと考えなかったのか。
今振り返っても「浅はかだったな」と思います。
人生最大の不幸はここから始まりました。
続きは第4章でお話します。
第4章 ギタリストで成功するぞ!のはずが…
第4章は、スペインから帰国して、ライブ活動やCD制作、レッスン活動、事務所との契約をスタートさせ、思い切って結婚をした男のリアルストーリーです。
・地獄の音楽事務所契約
・つかの間の結婚生活
・とある踊り手からの一言
そこからどうやって復活したのか?
ある意味、今のぼくの生き方の土台になる部分が形成された時期でもあります。
それでは第4章をお楽しみ下さい。
【4−1】こんなはずじゃなかった事務所との契約
事務所との契約は「月給45,000円」でした。
もちろん生活できませんので、足りない分は自分たちで補う必要があるのですが、事務所からは「明日空いてる?」と急に呼び出しがかかるため、定期的なバイトを入れることができません。
しばらくは、なけなしの貯金を切り崩しながら生活することにしました。
しかしそれも長続きしません。
思い切って社長に相談すると、
「君たちは何時に起きてるんだ?」
「お笑い芸人も朝早く起きて新聞配達をしながら、生活してるんだぞ」
とのこと。
新聞配達!?自分が!?
「すみません、さすがにそれはできません」
というと、ひたすら説教が始まります。
「自分が甘いから悪いんだ」
「自分の考えが間違ってるんだ」
だんだんとノイローゼ気味になってしまいました。
今振り返ると、この社長と会った時のぼくは、自分の頭で考えることに疲れていたんだと思います。
「誰かに頼りたい」そんな気持ちもあったんだと思います。
深く考えることもなく、
「この人についていけば間違いない!」
そう思っていました。
ちなみにこの社長が話している内容は素晴らしかったんです。
「街中を音楽で溢れさせたい」という思いだったり、音楽業界の現状についての問題点を話している時もすごく心を動かされました。
が、時々、「小さな嘘」をつくんですね。
例えば、あるライブハウスに行った時の話です。
「ここのマスターは私の知り合いだから、私の名前を出してくれれば、ショーチャージ無料にしてくれるよ」
というので、後日行ってみたら、
「そんな話は聞いていませんし、ありえません」とあっさり断られたこともありました。
他にも、ぼく達には「月45,000円」しか払っていないのに、周りには「彼らには20万ずつ払っている」と言ってたことが分かったり、
あるスタッフが辞める時は「池川兄弟と仕事をするのがイヤだから彼は辞めたんだぞ」と言われたり(これも後から嘘と分かりました)。
話すのは自分の自慢話、人の悪口だらけ。
そして突然の呼び出しには、とにかく説教の嵐。
小さな嘘の繰り返し。
だんだんと頭がおかしくなってきてしまいました。
そして、事務所を辞めようと決意した決定的な出来事が起きたのです。
【4−2】家族を守るため・・・
ある日。
弟に連絡をしても電話に出ないし、メールを送っても返事がないことがありました。
数日してようやく返事が来ると体調が悪いとのこと。
慌てて会いに行ったら、朦朧とした様子で、顔中に赤いブツブツができてるんです。
医者が言うには、その時はインフルエンザと診断されたようなのですが、それは誤診で、実は麻疹(はしか)にかかっていたことが後になって分かりました。
実はその年は、麻疹(はしか)が大流行していたんですね。
まだ世間で麻疹が流行る前だったので、医者も見落としていたようでした。
ちなみに、このあと、ぼくも罹ってしまったのです、大人の麻疹は本当にヤバイです…。
熱が連日40度以上。
同時に寒くて震えていました。
人って体温が高くなりすぎると、顔の皮が剥けたり、頭皮が剥けるので「フケ」のようなものが出てくるんですね。
家族の命に関わる一大事です。
ぼくが社長に
「すみません、弟が麻疹にかかってしまって・・・。出演が難しいんです」
と言うと、
「は?何言ってるの?」
「事務所に恥をかかせるつもりか?」
とまったく取り合ってくれません。
しまいには、損害賠償だとか、給料の減額の話だとか、お金の話しかして来なくなりました。
プチッと何かが切れたような気がしました。
「もう、やってられない」
一応、自分たちなりに頑張っていたつもりでしたが、家族の一大事にお金の話をして来ない人の元で働くことはもうできない。
結局、当初予定していたライブは、ライブハウス側が事情を察して、出演を見合わせてくれました。
そりゃ、麻疹にかかった人をステージに出させて、観客に感染ったらどう責任をとるんだ?と、今思えば当たり前の話なのですが、当時はそれすらも分かっていませんでした。
とにかく自分が悪いと思い込んでいたんです。
それだけ精神的にもグチャグチャでした。
しばらくして、辞める意志を伝えました。
相手はまた、契約遺棄の話だったり、損害賠償の話だったり、罵詈雑言を交えて脅してきましたが、ぼくがあの場で耐えられたのは、カッコよく言ってしまえば「家族を守るため」でした。
どんな暴言も、どんな理不尽な思いも、家族が守れるのなら、すべて受け止めてやる。
そんなつもりで、ただ黙って彼が言うことを聞いていました。
そして事務所とはフェードアウトする形で離れることができました。
今思えば、当時のぼくは人を疑うことを知らない都会のお坊ちゃんでした。
相手を疑うことを知らずに、言われるがままに信じてついていく。
騙される方が悪いと言えばそれまでですが、
「世の中には、こんなに嘘をつく人がいるんだ」
「自分の頭でしっかり考えなきゃダメだ」
という掛け替えのない教訓を得られたことについては感謝しています。
【4−3】幸せの結婚生活もつかの間…
ドロドロした事務所との関係を断ち切り、ぼくは当時付き合っていた彼女と結婚することを決意しました。
「何があっても、一緒なら乗り越えられる」
お互いにそう信じた結婚生活でしたが、わずか1年で離婚することとなりました。
ぼくが事務所とのやり取りで精神的に追いやられ、そのストレスをすべて奥さんにぶつけていたんですね。
ある日、地方の演奏から帰ってきたら、家財道具一式がすべてなくなっていたのです。
慌てて奥さんに連絡したところ、「もう一緒にやっていけない」とのこと。
自分のことばかりで、彼女の心に目が向けられなかった自分のせいです。
それからしばらくは放心状態でした。人間不信にも陥りました。
親しいと思っていた人が、突然離れていく恐怖。
それでもライブ活動は続けていかなくてはならない。
怖くて、人前にも出たくない。
「誰を信じたらいいんだ?」
「生きていくためには、ギターを弾かなければ」
「しかし、こんな自分が人前に出ていいのか?」
虚無感、葛藤、自暴自棄…。
何をしていても憂鬱で、自問自答を繰り返す日々でした。
【4−4 とある踊り手からの一言】
しばらくは、「このままじゃいけない」と思い、仕事に没頭することにしました。
忙しく過ごしている方が、余計なことを考えずに済むと思っていたからですが、ある日こんなことがありました。
踊り手さんからこんな依頼を頂いたんですね。
「池川さん、〇月〇日は空いていますか?」
ちょうどその日はタイミング悪く、スケジュールが埋まっていたのでお断りをしたところ、こんな答えが返ってきました。
「そうでしたか。じゃあ、他のギタリストをあたってみますね」
いつものぼくなら、まったく気にならない内容のやり取りなのですが、この時は妙に胸がチクっと痛んだのです。
「他の伴奏者をあたってみるって…」
「つまり、別にぼくじゃなくてもいいってことか?」
その時の精神状態の悪さもあったのかもしれません。
被害妄想もあったんだと思います。
それからしばらく、心にぽっかりと穴が空いたような気持ちになりました。
仕事に身が入らず、周りからも「元気がないね」と言われてしまう始末…。
一体何が原因なのだろう?
ぼくは自分に問いかけてみました。
ギターだけで少しずつ生活ができるようになってきた。
でも何か足りない…。
その「何か」の正体は、考えても考えても分かりませんでした。
悶々と過ごしていた最中、あの出来事が起こったのです。
【4−5】突然起きた大震災
2011年3月11日、東日本大震災。
多くの人命が奪われた未曾有の天災があったあの日。
ぼくは友人のバイオリニストに誘われ、宮崎県のコンサートに出演していました。
ニュースを知ったのは、昼の部を終えてメンバーと楽屋で過ごしていた時のこと。
家が津波で流される衝撃的な映像。
時間が経つにつれて、次々と増えていく行方不明者・亡くなった方の数。
何とか平常心を保たなければと思いながら、夜の部の演奏を行ったのを覚えています。
震災の影響は思わぬところにも出ました。
まず、予定していたライブは次々とキャンセル。
フラメンコのスペイン人アーティストの多くが帰国したり、スペイン料理店が次々と閉店に追い込まれたり、業界自体も大きな影響を受けました。
事務所との関係、結婚、離婚、踊り手からの一言、震災…。
これらの出来事をきっかけに、ぼくの人生観も大きく変わりました。
それは、
「人生はいつ何が起こるか分からない」
「それなら命を失っても後悔することがないよう、自分が本当にやりたいことを生きていこう」
ということでした。
では、そのために具体的に何をすればいいのか?
この時点ではまだ答えを見つけられていませんでした。
「人のために、自分のために、ぼくには何ができるんだろう」
考えても考えても、はっきりとした「何か」を見つけることはできませんでした。
それでも、何か行動に移さなければ。何かをしなければ。
そんな思いが抑えきれなくなったぼくある行動に出ることにしました。
続きは、第5章でお話します。
第5章 人生のドン底から救ってくれた出来事
第5章は、事務所との関係、結婚、離婚、踊り手からの一言、震災を経て、「自分が本当にやりたいことを生きていこう」と決意したものの、具体的に何をしたらいいか分からない男が、「人生の目的」を見つけ出したリアルストーリーです。
人生のドン底からどうやって這い上がってきたのか?
それでは、スタートです。
【5−1】なにか新しいことに挑戦しよう!
それまで、ぼくは音楽だったり、フラメンコだったり、狭い世界しか知りませんでした。
視野が狭くなると、どうしても考えが狭くなります。
ある日ふと、フラメンコとは違う、別の世界や出会いを求めるようになりました。
何か自分を変えたかったんだと思います。
すると、たまたま知り合いが「読書会」というものを開催することを知りました。
事前に指定されている課題図書を読んできて、当日参加者全員で感想を言い合うというものでした。
普段のぼくなら、「フラメンコに関係ないし」と断っていましたが、震災後の閉塞感もあり、思い切って参加してみることにしました。
何度か参加しているうちに、とある参加者の方と意気投合しました。
「この本良かったら君にあげるよ。読んでみて」
と勧めてくれたのが、今まで手にしたことがない自己啓発の本でした。
何気なく読んでみると、とても面白い!
その本は、お金や時間管理の大切さ、人間関係、健康について。それらすべてのことが詳しく解説している「成功哲学」と呼ばれるものでした。
それまでは、自己啓発の本にあまり興味がなかった(むしろ嫌厭していた)のですが、
「原因と結果の法則」
「引き寄せの法則」
「人生の秘訣は与えることである」
など、読んでみると面白くて、一気にハマってしまいました。
その後、この本の内容を体験できる無料のセミナーがあることを知り、参加してみることにしました。
【5−2】なんだこの世界は?
体験会当日、それほど広くないスペースにも関わらず、会場には大勢の参加者が集まっていました。
スタッフによる著者の紹介や著者が主催するセミナーの紹介、過去のセミナー参加者からの体験談コーナーなどがあったのですが、それらが終わるたびにスタッフが異様なまでに大きな歓声や拍手で盛り上げています。
その光景はちょっと怖いというか、経験したことがない空間だったので、当初はとても怪しいと感じていました…。
そして最後に合宿セミナーの日程と費用が紹介されました。
3泊4日で15万円です。
「15万!?高すぎる!無理無理!」
当時のぼくからしてみたら、それはもうビックリするぐらいの大金です。
その日は説明だけ聞いて帰宅しましたが、不思議と家に帰っても会場の熱気が頭から離れませんでした。
ぼくは悩みました。
「もう一度著者の本を読んでみよう。それから参加するかどうかを決めよう」
そう思い立ち、本を読み進めました。
「今のあなたは、本当に自分が望んだ人生を歩んでいますか?」
「人生に失敗はない。あるのは『成功する経験』か『学ぶ経験』だけ」
「今日は残りの人生の最初の日」
「人は死ぬ間際にやってきたことでなく、やらなかったことを後悔する」
改めて本を読んで、ギクっとしました。
自分のことを言われているような気がしたのです。
読んでいるうちに、ここに何か答えがあるかもしれないと思い、意を決してセミナーに参加することにしました。
【5−3】初めての自己啓発セミナーに参加!そして…
セミナーは千葉県内にあるホテルで開催されました。
参加者は約300人。ものすごい熱気です。
まずぼくが驚いたのが、セミナー時間の長さでした。
朝の9時から夜中の2時まで食事休憩以外なしのぶっ通しで、4日間、睡眠時間が2~3時間しか取れないんです。
4日間、毎日2、3時間の睡眠ですよ。
正直、体が慣れるまでのセミナー1日目、2日目ぐらいは結構きつかったのですが、3日目、4日目となるにつれて不思議とエネルギーが満ち溢れてきました。
内容は、
・決断
・目標
・お金
・健康
・人間関係
・時間管理
など、人生において欠かせない要素の秘訣を、座学と演習を織り交ぜながら教えてくれるのですが、中でも特に衝撃的だったのが、自分のミッション(人生の目的)を知って、身体に叩き込むという「ミッション・インストール」という演習です。
はじめに1~2時間くらい時間をかけて、自分のミッションを考え、文章に落とし込んでいきます。
そして4人1組のグループになって、作ったばかりの自分のミッションを叫び続けるのですが、グループの他の3人からの「イエス(そうだ)!」がもらえるまで終わらないのです。
短くて1〜2時間、長くて6時間以上、それこそ何百回と全力で叫び続けます。
「大声を全力で」を一度やってもらえると分かるのですが、たとえ3行ぐらいの短い文章でも全力で叫ぶと、それだけで喉を痛めますし、酸欠でフラフラになります。
10分もすれば声は枯れます。
しかし、声が枯れても聞こえなくても関係ありません。
伝える側は毎回全力でも、受け取る側からすると、やればやるほど思いが強くなっていることを感じているので「まだいける!もっといける!」と応援する。
この繰り返しこそが、まさに「ミッション・インストール(人生の目的を身体に叩き込む)」なのです。
後程スタッフの方から聞いて分かったのですが、この日は震災後初めてのセミナーということもあり、著者である講師はもちろん、スタッフや参加者もいつもと違う独特の盛り上がりだったようです。
周りの仲間たちがそれを支え、逆にこちらも支える。それは感動的な光景でした。
【5−4】自分のミッションを見つける
声が枯れ、心の底から思いを振り絞って、体全体を使って自分のミッションを叩き込む。
ぼくが全力で取り組んで、自分にインストールしたものがこれでした。
「すべての人に、情熱と元気と感動を与える」
「情熱」とはまさにフラメンコ音楽そのもの。
「元気」は外側に向かうエネルギー。
「感動」は芸術全般に言えることです。
そのどれもが人を勇気づけ、活力を与えるものだと思っていますが、日々が忙しかったりストレスを抱えていると感じにくいものです。
だからこそぼくは、
「まず自分が情熱的にイキイキと過ごし、感動を感じながら毎日を生きていく!」
「その姿を見た人達に、情熱や元気や感動が飛び火するような生き方がしたい!」
と、この演習を通じて、決意することができました。
そして、感動のセミナーは幕を閉じました。
【5−5】人生を変えた「1本の電話」
参加した直後は、自分のやる気も満ち、なんでもできるような気持ちになっていました。まさに生まれ変わった気分です。
ですが、しばらく経つとその熱はどこかへ去ってしまいました。
まあ、これが自己啓発なんですけどね(笑)。
また、やる気には満ちていても、「具体的に何をどうするか?」までは考えられていません。
再びモヤモヤする日々…。
そんな中、ぼくの人生を変える”1本の電話”が鳴ったのです。
その日は、お世話になっているフラメンコ教室の発表会に出演していました。
本番を終えて、控室でくつろいでいると、1本の電話が鳴りました。
ぼくが昔からお世話になっているフラメンコギター専門店の店長からです。
開口一番、店長はぼくにこう伝えました。
「池川君さあ、教則本書いてみない?」
・・・。
突然の内容に驚きました。
「え!?突然どうしたんですか?」
「いや、君なら書けそうな気がして…。ちょっと考えてみてよ。その気があるなら出版社の人を紹介するからさ」
もちろん当時のぼくは教則本を書きたいなんて一度も考えたこともありませんでした。
ですが、自分の状況を改めて見つめ直してみました。
ぼくはライブ活動や伴奏活動、レッスン活動を続けていくうちに「日本中にフラメンコを広めたい」という思いに駆られるようになりました。
「フラメンコは聞いたことあるけど、どんな音楽かよく知らない」という人が多いので、ライブでは分かりやすく解説コーナーを作ったり、有名な曲をフラメンコ風にアレンジして演奏したりしていました。
他にもブログを書いたり、Youtube動画で配信したりしてきましたが、それでもまだまだ道半ば…。
ましてや、店長が言った「教則本を書く」ことは、まったく考えていなかったのですが、そのうちに
「出版することができれば、また今までとは違った方法でフラメンコを広めることができるのではないか?」
と考えるようになりました。
【5−6】出版を決意した理由
実はフラメンコ界には、今も昔も変わらない状況があります。
それは、
「フラメンコの踊り手は多い一方で、伴奏者の数は圧倒的に少ない」というものです。
本来のフラメンコのスタイルは、歌と踊り、そしてギターの三者で合わせるものです。
ですが、日本は歌い手とギタリストの数が圧倒的に少ないため、限られた機会でしか三者が揃うことができません。
歌い手とギタリストが増えれば、日本中でフラメンコライブが行われて、人前に触れる機会も増えるはず。
それこそが「すべての人に情熱と元気と感動を与えたい」という自分のミッションや、「多くの方にフラメンコを広める」というぼくの夢に近づくのではないかと、そう感じたのです。
そのために、フラメンコギターの弾き方を分かりやすく解説した教則本の必要性を強く感じました。
しかし、当時はまだ30歳そこそこ。
そんな若造がフラメンコを語っても良いのか?迷いや葛藤もありました。
ですが、震災で命を失った方達のことを思うと、「今はまだ早い」というのは言い訳でしかない。
そんな風に感じて、人生初めての教則本を作ることを決めました。
【5−7】初めての教材制作は苦労の連続
ギターショップの店長に紹介してもらった出版社の担当者とお会いし、「フラメンコ・ギターの教科書」の制作が決まりました。
世界中のテキストを取り寄せて改めて研究を重ねると同時に、フラメンコの練習生が、何について悩んでいるのか?まずはそこを考えることから始めました。
早速、大きな壁にぶつかります。
「扱う量が膨大すぎる…」
実はフラメンコには
・地域
・時代
・アーティスト
によっていろいろなスタイルがあり、さらに曲種(きょくしゅ)と呼ばれる曲の種類や、コンパス(フラメンコ特有のリズム・パターン)も無数に存在します。
まずぼくが取り組んだのは、「何を捨てるか」でした。
あれも入れたい、これも入れたいでは、辞書のような厚さの教本になってしまい、結局は敷居を上げてしまいます。
「これは入れたいけど、こっちの優先順位の方が高いので、今回は残念ながらカットしよう」と取捨選択に苦労しました。
試行錯誤を繰り返し、当時としては画期的なDVD、タブ譜付きという内容で、1年かけて何とか完成させることができました。
本来、フラメンコは伝統音楽です。そのため、言語化や楽譜化するのが難しい一面があります。
また、「地方」「年代」「アーティスト」によって、演奏スタイルは千差万別です。
取り上げればキリがないのですが、内容は可能な限りシンプルにまとめて、ギターを触ったことがない初心者の方や、他のジャンルの音楽をしていて、フラメンコの雰囲気を感じたい方、本格的にフラメンコ奏法を勉強したい方に向けて、楽しんでもらいたい!という思いで制作しました。
ギター生徒にもモニターとして協力してもらい、1年がかりでようやく完成しました。
「フラメンコ・ギターの教科書」はおかげさまで9刷を超え、今もなお、全国に広まっています。(2019年6月現在)
【5−8】出版して、はじめて気がついたこと
出版当初は不安でいっぱいでした。
「本当に売れるだろうか?」
「内容についてクレームを言う人はいないだろうか?」
「果たして作って本当に良かったのだろうか?」
しかし、蓋を開けてみると、喜びやお礼のメールが毎日届くようになりました。
「こんな教則本を待っていました!」
世の中にはこんなに情報を求めているんだという現実を改めて知りました。
発売して半年ぐらい経つと、教則本を終えられた方から、「続編はないんですか?」という声をいただくようになりました。
それをきっかけに、教材作りはぼくのライフワークとなりました。
アレンジ能力と演奏技術を高めたい方には「フラメンコ・アレンジ教材」を、伴奏技術を高めたい方には「フラメンコ舞踊伴奏マスターDVD」と、次第に細分化していき、それに伴い、いかに教材を広めるかというマーケティングにも力を入れるようになりました。
一昔前までは、「フラメンコやギターに関係のないことは時間のムダだ」と思っていましたが、今はもう楽しくて仕方がありません。
なぜなら自分の思いや理念が込められた教材が、自分の手を離れて、人の役に立てるのですから。
ぼくの身体は一つですし、時間も限られています。
そんな「自分の分身」を作ることは、まさに自分の「役割」、しいては「天命」のように感じており、これからも続けていきます。
ちなみに教材の注文から発送まで全部自分でやっているのですが、ポストに投函する時は、まさに我が子を嫁に出す気分です(笑)。
【5−9】そうだ、講師を増やそう!
教材作りと同時に力を入れ始めたのが、「講師養成」です。
教則本が出版され、認知されるようになると、ありがたいことに習いに来てくれる生徒も増えてきました。
すると、一人で教えるのがだんだん難しくなってきたんです。
そこで思い切って、生徒の中から選りすぐって、講師にすることにしました。
教えるとなると、技術はもちろん、コミュニケーション能力も必要です。
カリキュラムやマニュアルの作り方、組織運営やコミュニケーションに関する本など、その手の名がつく本は、片っ端から買いました。
とにかく、自分に足りない知識を埋めるために、ガンガンお金と時間を使うようになりました。
実はフラメンコの世界は、伴奏ギタリスト不足もさることながら、ギターの技術そのものを教えてくれる先生も少ないのが現状です。
その理由は、
1.フラメンコギターを学べる環境(教室や教材)が少ない(もしくはない)から。
2.フラメンコギターの技術を教えられる人が少ないのと、知っていても教えたがらないから。
と思っています。
フラメンコギターを教える先生が増えれば、フラメンコギターを弾く人口が増え、その中でプロを目指したい人がさらに増えてくれれば、結果的にフラメンコギタリストが増えるのではないかと、そう思っています。
日々、ブログなどで発信していると「自分も池川さんのようにギターで飯が食いたいです」というメッセージを頂くことがあります。
もちろんギターだけで飯を食っていくのは険しい道に違いありませんが、人生は一度きりです。
ぼくはロック、エレキ、ジャズ、クラシック、ブルースなどジャンル問わず、ギターで飯を食いたいと思っているすべてのギタリストの夢を叶えたいと思っています。
プロを目指したいという方以外にも、もちろんギターを趣味で楽しみたいという方も多くいます。
中には定年退職された方も多くいます。
学生時代にギターにハマり、その後は仕事のために40年近くブランクがあり、定年後に再びギターを手にした人たちです。
そんな方にも、フラメンコ伴奏をおすすめしています。
フラメンコはギターだけでなく、歌や踊りと一緒につくり上げるものです。
年齢、性別問わず、今まで以上に幅広い人間関係を築くことができます。
出会った仲間たちとお互いに切磋琢磨し、舞台を作り上げる喜びを共有できます。
逆にうまくいかないと、若い女性から「それじゃ踊りにくいです」と怒られてしまうわけですが、なぜか嬉しそうに見えるのはぼくだけでしょうか(笑)
【5−10】ようやく見つけたぼくの「役割」
震災後があり、世の中全体が閉塞感に満ちていたあの日。
ぼくは意を決して、自己啓発系のセミナーに参加し、自分の「生きる目的」を見出したものの、具体的に何をどうしたらいいのかはわからない状況でした。
そして、突然現れた「教則本出版」という転機。
振り返ると、何か目に見えない運命に導かれていたように感じます。
今は、フラメンコを通じて、人が目標に向かって、イキイキと取り組む姿がとても嬉しいんです。
ぼくはたまたまそのお手伝いをしているだけです。
教えるというよりは「人生をイキイキと過ごすための場作り」をしているんだなぁと改めて思います。
何よりぼく自身が心の底から楽しめているんです。
特に芸術ごとは正解がありません。
テクニック、リズム感、表現力など、上を見上げればキリがないですし、自分より上手い人はたくさんいます。
本場のスペイン人に負けないぐらいの技術や表現力を追い求める道もありますし、日本人だから、日本人にしか出来ない表現を追う道もあります。
どれが正しいとか間違っているとか言うつもりはまったくないのですが、ぼくの場合は
「フラメンコ音楽の魅力を周りに伝えること」
「毎日を明るくイキイキと過ごす人を増やすこと」
こそが、最大の喜びであり、ぼくの「役割」であることを知りました。そして・・・
今は、年間200名以上通うスクールにまでなり、セミナーを開催しても満席でお待ちいただくまでになりました。
さて、これまで事務所問題や離婚を経験し、人生の崖っぷちだった男が、起死回生するストーリーをお届けしました。
次の章では、ぼくが実際にしてきたことについて、もう少しお話したいと思います。
振り返ってぼくがやってきたこと
自分の半生を振り返ってみると、スペイン留学からプロとして駆け出し、結婚や離婚、そして踊り子に掛けられた言葉、セミナーへの参加、教則本の出版、講師養成…。すべてはつながっているように思えてきます。
この中のどれかひとつが欠けても、今のぼくにはならなかったでしょう。
この章ではこれまでの活動を振り返りながら、ほくがしてきたことをまとめていこうと思います。
ぜひ、楽しみながらお読みください。
【6−1】名乗りを上げること
ぼくは、プロして活動するならまず自分からプロと名乗ることが大事だと考えています。
「私は練習生です。勉強させてください。」
というスタンスではいつまで経っても練習生扱いなので、お金をいただくことはできません。
ですが、「私はギタリストです」と名乗れば、相手もそういった目で自分を見てくれます。
名乗るのにお金はいりません。
必要な資格もありません。
名乗らなければ、相手に知ってもらうことはできません。
声がかかることもありません。
ぼくも最初は、「プロのフラメンコギタリスト」と名乗るのは抵抗がありました。
ですが、勇気を出して踏み出さない限りは何も始まりません。
些細なことでも覚悟をしなければ、先に進むことはできないのです。
【6−2】自分の「分身」を作ること
ギタリストはもちろん、すべての人にとって、体は資本です。
フラメンコ伴奏の場合は、スタジオへ行き伴奏すればお金に、ライブ活動の場合は、演奏すればお金になりますが、万が一怪我や病気をしてしまっては、その分の収入が途絶えるリスクが常にあります。
そこで、ぼく自身が実体験としておすすめするのが「自分の分身を作ること」です。
具体的には、「自分がいなくてもお金が入る仕組みを作ること」です。
例えばCDはそうですよね。
販売ページを作って売れれば、アルバイト1〜2時間ぐらいの収入になります。
ぼくの場合は、教材作りだったり、講師養成で、自分の分身を作る活動をしていますが、少しハードルが高いと思うので、はじめはCDを作ったり、ライブ映像を収録したDVDを販売してもいいと思います。
作るまでは大変ですが、一度作ってしまえば、自分が寝てようが何をしようが、勝手に売れて収入になるのです。
実際に「自分の分身」があると、日々の安心感が違います。
忙しい時は毎日仕事をこなすのに必死だと思いますが、仕事には波があります。
時にはスケジュールが真っ白な日が続くこともあるでしょう。
そうなると当然焦るわけですが、その焦りは不思議と音楽にも出てしまうもの。
「音楽はお金じゃない!」と思う方もいるかもしれませんが、生きるためには必要以上の収入は絶対に必要です。
音楽で稼げないのならアルバイトや他の仕事をする必要がありますが、その間は当然練習ができなくなってしまいます。
いざ、音楽の仕事に呼ばれたとしても、収入につながるまでには時間を有します。
これは、呼んでくれた踊り子との信頼関係による部分が大きく関わっています。
こんな状況の中でも、自分の分身を作ることができれば、焦りが減ります。
精神的な安定は演奏にも良い影響を与えます。
演奏家として活動を考えている方は「自分の分身」をつくることをぜひ考えてみてください。
【6−3】自分の「役割」を知ること
ぼくにもコンプレックスがあります。
本場のスペイン人や、日本人で活躍されている方と比べてしまう時もあります。
「自分には才能がないんじゃないか?」そんな風に思ってしまいます。
第4章でぼくが参加したセミナーで得た教訓のひとつに「自分の役割を知る」というものがありました。
人は皆、違っていて当たり前です。
もちろん本場のスペイン人をリスペクトしていますが、彼らとまったく同じ演奏をするのであれば、自分じゃなくてもスペイン人を雇えば良いはずです。
日本人がスペインの文化を奏でて、お金をいただく意味は?
そう考えると、ぼくはそれぞれが持っている経験や好み、個性が十分に反映されてもいいのではないかと思っています。
ぼくが育てたギター講師の中には「徹底的に初心者に寄り添います」をモットーに活動している人もいます。
ゲーム好き、アニメ好きなギタリストの友人は、ゲーム音楽をフラメンコ風にアレンジして演奏している人もいます。
人の数だけ表現があり、人の数だけ役割があります。
ついスペイン人と比較して、コンプレックスを抱いてしまいがちですが、そうではなく、「自分にしか出来ないこと」を徹底的に考え抜き、出た答えに邁進すると、とてもエネルギッシュに動けます。
他と比べる必要がないわけですから。そう悟ることができれば無敵です。
ぜひ、自分の「役割」を考えてみて下さい。
【6−4】決して、あきらめない
ぼくは東京・港区の赤坂の生まれということもあり、本当に何不自由なく育てられてきたんですね。いわゆる典型的な「世間知らずなお坊ちゃん」です(笑)。
自分が正しい、自分が偉いと勘違いして、他人を不快な思いにさせたり、傷つけたこともあったし、本当にひどかった。
考えは浅はかだし、何か都合が悪くなると相手のせいにしていました。
そんなダメダメな自分でしたが、ただひとつだけ、自分が誇れること、愛せることがあるとしたら、それは
「決して諦めなかった」
ということ。
アーティスト活動がうまくいかなくても、生徒が思うように集まらなくても、歯を食いしばって「なんとかギターで飯を食うんだ!」と思うようにしました。
ぼくが以前参加したセミナーで、講師がこんな事を言っていました。
「出来事に意味はない」
「あるのは解釈だけだ」
と。
例えば、リストラされたとしたら、「給料が入らない」「飢え死にする」「価値のない評価」「死ねと言われたと同じ」と解釈することもできれば、
「次のもっと良い仕事をする機会が与えられた」「嫌な上司と会わずに済む」「失業保険が増えた」「辞表を書かなくて済んだ」と解釈することも出来る。
そう。起こった出来事に対して、悪く捉えるのも良く捉えるのも、本人次第です。
当時は地獄と感じていた事務所とのやり取りでしたが、振り返ると「重要な判断を他人任せにしてきた、自分に甘い過去への決別」のようにも思え、今では感謝しています。
アーティスト活動がうまくいかなくても、生徒が思うように集まらなくても、「抜けないトンネルはない」「歯を食いしばって「なんとかギターで飯を食うんだ!」と思うようすると、その時は辛くても、振り返ると「続けてよかった」と思えます。
ということはやることは一つです。
出会う人すべて、起こることすべてに感謝する。
ぼく達自身が率先して輝ける存在になっていきましょう。
あとがき
自分の過去を洗いざらい書く、というのは恥ずかしい気持ちもありますが、一方でどこか清々しい気持ちでもあります。
そもそも、何のためにこんな話をしたかというと、過去の自分と同じように、頑張っているけどなかなか成果が出ない、本当に努力しているのに、なかなか報われない、そういう状況で苦しんでいる人が、ぼくのストーリーを読んでくれて、少しでも何か気づきを得て、また立ち上がるきっかけになればと思ったからです。
もし、何か気づきやヒントが得られたら、ぜひメッセージをください。
ささいなことでも構いません。
一番理想的なのは、あなたと直接お話することです。
そのきっかけが、この本だったら最高だな、と思います。
さいごに・・・。
ぼくが学生時代に、ギタリストとして生きていく勇気を与えてくれた友人の言葉。
「池川さん、世の中にはいろんなジャンルのギタリストがいますけど、ギターで飯が食えるのはフラメンコだけなんすよ」
この言葉をきっかけにぼくの人生は動き始めました。
自分の好きなことで楽しく仕事ができますように。
人生をイキイキ情熱的に生きられる人が増えますように。
そんなお手伝いができると嬉しいです。
きっと、世界が変わります。
ぜひ、どこかでお会いしましょう。
池川寿一
書籍はこちら